痛い 痛い 痛い

 痛かった思い出 

 先日肘の痛みで病院へ行きました。
原因は頸椎 脊椎からきているようです。
待合室で待っている間に痛みの歴史(自分)にとってを思い出しました。

多くの待合室で待っている患者さんたちにも 私のように痛い思いをして待っている方は
どのくらいいるのか? 考えました。
激痛を我慢しながら昔の事がよみがえりました。

先ず痛さの記憶は小学3年生の6月でした。
家の前の道路で幼い弟と電車ごっこをしていて私がその輪のなかから悪戯心で輪から抜けて弟を驚かせようと思って抜けだしました。その時に勢い余って左足の下に右足が入ってもつれるような形で転びました。
「痛い痛い。」 
と泣き叫びながら立ち上げることができないので いざって家の庭に入りました。


私が泣くと二人の姉も一緒になくので大騒ぎです。
父が私の足を触って「骨が折れているようだ。」
もう夕方なので翌日病院に行くことにしましたが足に心臓がきたみたいに ドキン ドキン
しましたが なんとか眠って 傘を壊して傘の骨を足に当てて手拭でぐるぐる巻いた足
で病院へゆきます。
車と汽車にのって父親と一緒に病院に向かいました。
その前に以前骨を折った人(わが家へ出入りしていた友達のお爺さん)
の家によってどこへ行ったらよいか聞きましたら 下呂の骨接ぎを教えてくれました。
それ以来 下呂の骨接ぎは私の頭の中に記憶として残っています。
でも父の選択はやはり病院でした。
病院でベッドに寝かされていると若い医者の卵達が数名入ってきて
私の足の痛いところを触って「ここが痛いの?」
などと言いながらチョ-クのようなもので皮膚の上に印を書きます。
次々にチョ-クで印をするのですが 全然的はづれの人もいました。
こっちは痛いのに悪戯書きされて..
レントゲンの結果場所が特定されました。
下腿の部分と小指が折れていたようです。
それで包帯を巻いて熱い石膏を塗っての繰り返しでギプスになりました。
痛みが無くなると学校へ行きますと上の学年のヨシオという男の子がいやにからんできて
「白い長靴..白い長靴。」
とはやし立てられました。

痛い思い出 

お産もしたけれど そんなに痛い痛いと騒ぐほどではありませんでした。
耳のケガ  外耳炎 は痛かったです。
耳かきをしていて はずみで外耳を傷つけてしまいました。
最初は近くの耳鼻科に行きましたら..なかなか 治らないので ついに 先生も
匙を投げて病院を紹介されました。
耳を抑えながら待合室で待っていましたら..「ずいぶん痛そうですね。」
と知らない方から声を掛けられました。
診察室で先生が「メスで鼓膜を切開しますよ。」
「大丈夫ですよ。必ず再生しますからご安心くださいね。」
と言われて応じました。
耳の痛さは病院ではすごくいたいけど昼間雑事に追われているときは紛れますが
夜寝るときはすごい痛さです。
痛み止めを飲みますと波が引いてゆくように痛みが引いてゆきます。
そんなことも考えながら痛みをこらえながら待合室で我慢をしていました。

痛い思い出 

2021年の暮れに急性胆嚢炎になりました。
この日はハーモニカ仲間が亡
くなってお通夜の日でした。
家に帰り真夜中に急にお腹が痛くなりだしました。
何なの? この痛みは? これが胃痙攣というものなの?
真夜中でしたので どうにもなりません。
どこかに歯医者さんからいただいた痛み止めはなかったかしら?
もう何年も前だから処分したみたい..あ~大変..
同居の家族も夜明けとともにスキ—に出かけちゃいました。
この時が一番痛くて 横になっていればよ~く寝られて 不思議な現象でした。
でも食べ物は受けつけられませんでした。
1日ごろごろしておりましたが 翌日近くのお医者さんへいって 最後に食べたのが
お寿司と話したものですから..アニサキス..(私が先入観を持たせてしまい)
痛み止めを処方され家にかえりましたが..どうもちょっと違うみたい..
とうとう救急車を呼びました。
救急隊の方に事情を話しますと「それは急性胆嚢炎だと思います。一刻を争いますよ。」
すぐに病院が見つかり病院につくとストレッチヤ—が待機しており
素早い検査で何が何だかわからないうちに手術となりました。
(家族は同意していました。)
予後もよく2週間程度で退院することができました。
バリバリとした元気のよい若い女医さんがすてきでした。(回診)のときには 元気を
いただきました。
思いのほか楽しい入院生活でした。

そんな痛かった思い出を回想して待合室で我慢しておりました。

長いような短いような人生です。
痛い思いも沢山しましたが あまり家族には味わって欲しくないような痛みでした。
      牛乳にシナモンを入れたらなんかOK見たいになりました。世の中

      すべてOKならば 良いですね。


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